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舁き山紹介

新 流「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」

新流復活40周年の記念すべき年に、三十幾戦負け知らずの黒田長政にあやかり、無敵の新流れを誓う意味で作られた台飾り。黒田長政の人物像は、礼節を重んじ武勇に優れた武将でありながら、敵軍に優しさを持つなど広い心の持ち主であったとされる。
藩政においても家老・下級武士などの意見を取り入れ、教育などにおいても立ち振る舞いやマナーを重んじる、その姿に新流れを重ね憧れ、黒田長政をモチーフとした。

 

新流の舁き山画像

新流ポスター

 

菰田流「真田日本一の兵」

後年うたわれた真田幸村は、関ケ原の戦いで上田城に籠城して徳川秀忠軍を足留させ戦いに遅参するという手柄をたてたが、東軍が勝利した後、九度山に蟄居させられる。 14年後に大阪冬の陣が起こると、豊臣家の要請で大阪城に入場し、徳川軍とまたもや対決する。慶長20年夏の陣では、全軍赤備えの具足で天王寺にて徳川家康本陣に攻め入り、家康に死をも覚悟させた。
しかし、奮戦にもかかわらず最終的には兵力に勝る徳川軍に追い詰められ、見事な最期を遂げた。勇猛さと義の一文字は永遠に語り継がれる。徳川本陣に死を覚悟して突っ込む幸村を表現している。

 

菰田流の画像

菰田流ポスター

 

二瀬流 「黒獅子」

かつて飯塚には日鉄鉱業二瀬工業所野球部という強豪チームが存在した。その強さは老若男女問わず魅了し、昭和27年と昭和33年の2度、全国都市対抗野球大会で準優勝を収めた。優勝チームには黒獅子旗、準優勝チームには白獅子旗がそれぞれ贈られる。
黒獅子には強さ・勇壮さを持ち合わせた百獣の王という意味があり、黒獅子旗を目指し、練習を続けた日鉄二瀬野球部の様に頂上を目指すという意味を込めている。

 

二瀬流の舁き山画像

二瀬流ポスター

 

東 流「豊臣朝臣羽柴秀吉」

秀吉は尾張国(愛知県名古屋市)で、足軽の木下弥右衛門・仲の子として出生。
一五五四年(天文二三年)木下藤吉郎秀吉と名乗り尾張の戦国大名織田信長に小者として仕え、若くして織田家の有力武将となる。信長が支配領域を拡張する中で更に功績を上げ、長浜・但馬国・播磨国を領する織田家宿老の一人となった。毛利氏を討つため中国攻めの最中、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、急ぎ和睦して京へと戻り山崎の戦いで光秀を破り仇討ちを果たす。数々の功績をあげた秀吉は武士として初めて関白となり豊臣の姓を賜った。その後各地の戦国大名に臣従を要求し、北条氏を降した小田原征伐により天下統一を果たし戦国の世を終わらせた。
「人を切ぬき中候事きらい中候」
非殲滅主義を貫き、寛容ともいえる態度で多くの大名を助命し自らの配下としたことが天下統一への近道となった。

 

東流舁き山画像

東流ポスター

 

西 流 「徳川家康公」

江戸幕府の初代征夷大将軍「海道一の弓取り」の異名を持つ。
全国を支配する体制を確立し、応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代に終止符を打った。家康の開いた江戸幕府は明治維新まで246年続く。

 

西流の舁き山画像

西流ポスター

 

 

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